関西の鉄道沿線で魅力を発掘する「ふらっとホーム」。なんば編の最終シリーズとなる今回は、大阪メトロで3つある「なんば駅」のうち、まだ取り上げていなかった千日前線だ。野田阪神(大阪市福島区)と南巽(生野区)を結ぶ路線。かつて千日前近辺が「難波新地」と呼ばれ、花街で栄えたことから車両のラインカラーは「ピンク」。なんとも粋な決め方だ。千日前-とくれば『道具屋筋商店街』。だが、訪れた方は少ないかもしれない。なぜだろう…。その秘密を探りにいざ、道具屋筋へ! あれ、入り口はどこ? このあたりに問題がありそうである。
『千日前道具屋筋商店街』-。昔から名前は聞いたことがある。大阪メトロ「なんば駅」から地上に出て「南海通り」を真っすぐ進むと右手に「なんばグランド花月(NGK)」がある。たしかこの辺りに、入り口が…。
あった。NGKを通り越して右手奥に『道』の看板のついたアーケード。だが、少々分かりにくい。
「そうなんです。難波という好立地条件なのに、NGKは知っていても道具屋筋商店街が分からない-という人が多いんです」
と、答えてくれたのが同商店街振興組合「青年部」の千田彰宏部長(45)だ。
「青年部」は2007年に結成しことしで18年目。
「最初は先代たちが始めた〝道具屋筋祭り〟の手伝い。20代前半の僕たちが屋台を出したり、子供たちを喜ばせたりして盛り上げてたんです」
当時、集まったのは5、6人。だが、2年たち3年たつと同世代の仲間が増えて10人以上のグループになった。みな、商店街に店舗を構える2代目、3代目たち。千田彰宏部長も千田硝子食器株式会社の3代目。父の忠司氏は振興組合の現理事長だ。
とにかく発信
仲良くなった彼らは、家業の将来について話し合うようになった。
「みんな危機感を持っていました。〝ここはプロを相手にする道具の専門店街。一般の人に買ってもらわなくてもいい〟-と、父たちに聞かされて育った。でも、もうそういう時代は終わったんです」
100円ショップの出現やネット通販が一般化。なによりプロが「道具屋筋」で買わなくなったという。
「道具にこだわらないプロの方が多くなった。物のよさより値段の安さ。それに今は、お店を始めるにもすべての道具を不動産屋が揃えて、はい、どうぞ-と渡してもらえる時代なんです」
だからといって、家業を投げだすわけにはいかない。彼らは真剣に話し合った。新しくこの商店街で店を構える人たちの意見が〝刺激〟になったという。
①立地条件は良くて儲かるのに、なぜもっと発信しないのか
②商売形式が古い。店員が呼び込むわけでなく、セールスもしない。
③専門店の意識が強く、一般のお客さんには敷居が高い
「言われて初めて〝そうなんだ〟と気づかされました。だから一から始めよう-と」
彼らはまず「発信」することを目標においた。
2010年にゆるキャラ「まい道クン」を誕生させ、〽どどど道具屋筋 どどど道具屋筋-と歌う『道具屋筋のうた~道具の華咲くこの場所で~』を発表。
13年の「道具屋筋祭り」では大きさ63・5センチ、厚さ53ミリ、重さ11・58キロの世界最大のたい焼き(一般的サイズの100倍)を作って見事、ギネスにも認定された。そして15年には「黒門市場商店街」とのコラボ。 「とにかく、目立つことやろう。そうして道具屋筋商店街の名前をもっと知ってもらう。いまはインバウンドの人たちのおかげで賑わってますが、もっと日本の方にも足を運んでもらいたい」
2つの道模索
彼らには他の商店街とは違い〝2つの道〟を歩まなくてはならない。ひとつは楽しくて誰でも気安く来られる商店街を作ること。そしてもう一つがプロの技を極めた物を売る商店街だ。
「僕たち小売店は品物を作ってくれる人たちにも支えられてきました。いま、後継者不足で苦しむ工房や工場を今度は僕たちが応援しなければいけない」
そうして始めたのが、道具を通して先人の築いてきた食文化を未来へ繋いでいく道具屋筋商店街プロデュースのブランド『絆具(TSUNAGU)』の発信だ。
現在、道具屋筋商店街は約50店舗。15人が「青年部」に所属している。上は52歳から最年少は29歳。これだけの「跡継ぎ」がいる商店街こそまさにギネスもの。彼らの努力はきっと、どどど-と華咲くに違いない。
1枚の写真
何やら奇妙な塔が2つも立った不思議な風景写真。実はこれが大正3年から昭和5年まで千日前にあった『楽天地』と呼ばれる総合レジャー施設だ。
明治45年1月、難波新地で大火事が起こった。千日前や西高津新地、生國魂神社辺りまで焼けた通称「ミナミの大火」。このミナミの危機に南海電鉄が立ち上がった。
当時、社内で「アイデアマン」として名高かった大塚惟明社長が、復興のシンボルとして近代的なレジャーセンター建設を構想。大阪の興行界の大物・山川吉太郎氏に声をかけ、南海電鉄の出資で建設したのだ。
地上3階建ての尖塔(せんとう)が立ち並び、中央には円形ドームの大劇場。芝居や映画などが上演され、地下にはメリーゴーラウンドやローラースケート場、水族館まであったという。やるなぁ、南海!
その後の楽天地は数奇な運命をたどる。昭和7年に歌舞伎座に生まれ変わったが、入り口が東北の鬼門にあり、役者にいみ嫌われたとか。二転三転し33年に「千日デパート」へと転身したが47年6月、火災を起こし、いまは閉館の身。よくよくついてなかった。(田所龍一)
◇
千日前の由来 江戸時代、法善寺の一帯、難波近郊には、大坂城が落城し豊臣家が滅亡した「大坂の陣」以降、墓地や刑場があった。寛永21(1644)年、同寺の専念法師が死者を弔うために「千日念仏回向」を行った。そのため法善寺は「千日寺」と呼ばれ、門前あたりの土地が「千日前」といわれるようになった。
明治になって日本でも映画が上映されるようになると、千日前には映画館や劇場が立ち並び、昭和に入ってからはさまざまなエンターテインメントを楽しめる「大興行街」となった。
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